縄張りの変遷

近世城郭となる以前、この場所は、天文15 年(1546)に大坂本願寺10 代証如によって、加賀一向一揆を統括する本願寺末寺として金沢御堂(金沢坊舎)が建てられた場所と推定されており、周囲には寺内町が形成されました。御堂は本丸付近に位置したと伝わりますが、その確証は得られていません。

近世城郭としての変遷

金沢城の近世城郭としての変遷は、寛永8 年(1631)の大火、宝暦9年(1759)の大火、文化5 年(1808)の大火という3 度の大火を節目に大きな変化がみられます。建造物の再建等により、初期金沢城(天正8 年(1580)から寛永の大火まで)、前期金沢城(寛永の大火以後、宝暦の大火まで)、中期金沢城(宝暦の大火以後、文化の大火まで)、後期金沢城(文化の大火以後、廃藩置県まで)と姿を変えてきました。

初期金沢城

天正8 年(1580)に織田信長配下で越前国主であった柴田勝家が金沢御堂を陥落させ、柴田の甥である佐久間盛政が初めての金沢城主となり城郭整備に着手しました。 この城郭整備は土塁や堀による防御が中心であったと推察されますが実態は判明していません。 天正11 年(1583)の賤ヶ岳の合戦後、羽柴秀吉方に味方した前田利家が能登七尾城から移り金沢城主となり、天正14 年(1586)から15 年(1587)の天守造営、文禄元年(1592)の本丸高石垣の建造などを行いました。その後2 代前田利長、3 代利常によって、慶長6 年(1601)の内惣構、慶長15年(1610)の外惣構の築造など金沢城及び城下町の本格整備が進められました。 初期金沢城に関する絵図や文献は極めて少ないものの、近年の発掘調査で、いもり堀内側での「古いもり堀」、本丸附段での堀跡など、断片的ではありますが資料が蓄積されつつあり、現状とかなり異なる曲輪配置をもつと推定されています。 この整備に必要な石材は、城の南東約10㎞の戸室山周辺に開かれた石切丁場で採掘されました。また、古絵図・史料により、城内には長や横山といった家臣が屋敷を構え居住したことが判明しています。 なお、本丸にあった天守は慶長7 年(1602)の落雷により焼失し、代わって翌年三階櫓が建設されました。  

初期金沢城の絵図・本丸を中心とした縄張り 「加州金沢之城図」(東京大学総合図書館蔵)

前期金沢城

寛永8 年(1631)4 月に城下で発生した火事は、本丸御殿をはじめとする城の中枢施設に類焼しました。この火災後、本丸の地の狭さなどから、二の丸の拡張工事や二の丸御殿の創建がなされ、以後城の中心的役割を担うことになります。同時に、本丸三階櫓や御殿も再建されました。この3代利常による城再建は、城内各所に残る寛永期石垣や領内からの人員の動員規模などから大規模であったことがわかり、幕府から謀反の疑いを持たれる原因ともなりました。 現在見ることができる金沢城の縄張りは、この寛永大火後の普請でほぼ定まりました。その規模は概ね、大手堀・いもり堀・蓮池堀・白鳥堀という4 つの外堀で囲繞された東西約500m(石川橋~玉泉院丸)、南北約760m(車橋~藤右衛門丸)、面積約30ha であり、さらに外堀の外郭には金谷出丸(現在の尾山神社付近)や、兼六園、堂形などの関連施設が配置されます。 寛永9 年(1632)には、犀川上流の辰巳村で取水する辰巳用水(国史跡)が開削され、城内に豊富な水量の水が引かれました。

前期金沢城の絵図・概ね現在の縄張りが形成される 「金沢城図」(金沢市立玉川図書館蔵)

前期二の丸御殿の絵図・前田利常が創建した御殿 「金沢城二之丸座舗之図」(部分)(金沢市立玉川図書館蔵)

中期金沢城

宝暦9 年(1759)4 月、城下町は未曾有の大火に見舞われ、1 万軒以上の武家屋敷・寺院・町屋が焼失しました。金沢城も本丸、二の丸、三の丸など主要施設を全焼し、その被害規模は幕府への城再建と石垣修復の願い出に添付された絵図に142箇所の焼損箇所が示されるとおり甚大なものでした。 翌年には二の丸御殿裏式台をはじめとした建物の再建、石垣の修復が始められます。現存する石川門は宝暦の大火後の天明8 年(1788)に再建されたものです。 なお、財政難のため本丸の櫓群や二の丸御殿の大広間・表能舞台などは再建されませんでした。

中期二の丸御殿の絵図・竹の間や表能舞台は再建されなかった 「二之丸御殿并御広式御絵図」(金沢市立玉川図書館蔵)

重要文化財石川門

後期金沢城

文化5年(1808)1月に二の丸御殿から出火した火災では、御殿など二の丸の建造物が全焼しました。その後の再建は深刻な財政難にもかかわらず、家中はじめ領民から献金や資材提供を受けながら3 年間で行われました。 本丸附段に現存する三十間長屋は、宝暦の大火で焼失してから約100 年たった安政5 年(1858)に再建されたものです。また、東の丸附段に現存する土蔵(鶴丸倉庫)は、宝暦大火後再建されたが嘉永元年(1848)に建て替えられたものです。

後期金沢城の絵図 「御城中壱分碁絵図」(横山隆昭家蔵)

後期二の丸御殿の絵図・竹の間が再建される大規模な建物となった 「二の御丸惣絵図(三歩碁)」(金沢大学附属図書館蔵)

重要文化財三十間長屋

重要文化財土蔵(鶴丸倉庫)