明治時代以降の変遷
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明治時代以降の変遷
明治2年(1869)の版籍奉還により十四代前田慶寧は二の丸御殿を出て、前田家による金沢城の歴史に幕を下ろしました。明治4年(1871)の廃藩置県後、金沢城の地は兵部省(後に陸軍省)の管轄となり、翌年以降、兵営として利用されました。
新政府による明治6年(1873)の全国城郭存廃ノ処分、いわゆる存城廃城令で金沢城は存城処分となり、陸軍省の所管するところとなりました。
軍隊においても二の丸御殿が拠点となりましたが、大広間を練場とするなど内部の改変があったとみられます。明治14年(1881)には失火によって二の丸の御殿や門、櫓などのほとんどを失い、翌15年(1882)頃には河北門が撤去されるなど、かつての金沢城の建物は失われていきました。
軍隊時代の御殿の姿を表す図面・大広間には練場の記載が見える 「金沢城廓内絵図面」(石川県立図書館蔵)
玉泉院丸一帯においても明治10年(1877)に鼠多門橋が老朽化のため撤去、明治17年(1884)には鼠多門も火災により焼失し、庭園は埋め立てられて馬場が造成され江戸期の面影は失われました。
鼠多門、鼠多門橋の古写真 「金沢城門等写真」(金沢市立玉川図書館蔵)
石垣も軍隊により大きく改変されました。本丸北の石垣は積み直されてトンネルが掘られ、本丸南の高石垣も大きく改変され、石垣を登るための階段も各所に付けられました。
戦後の昭和24年(1949)には金沢大学が開学し、大学本部、教養部、理学部など工学部と医学部を除く学部が置かれ、全国的にも珍しい城の中の大学として親しまれました。
玉泉院丸には体育施設が置かれ、外周部は順次公園化が進められ、いもり堀にはテニスコートが整備されました。
平成7年(1995)までに大学の郊外移転が完了し、平成8年(1996)には石川県が土地を取得し金沢城公園として整備を進め、現在に至っています。