金沢城の復元整備

河北門

約130年ぶりによみがえった
金沢城の実質的な正門「河北門」

河北門の特徴と整備の概要

河北門は三の丸に位置する枡形門で、河北郡方面を向くことが名前の由来と言われています。金沢城の実質的な正門とされ、石川門、橋爪門と合わせて三御門と呼ばれます。 金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772)に再建された建物が明治期まで存続し、明治15年(1882)頃に撤去されました。 平成22年(2010)に枡形門を構成する一の門、ニの門、枡形土塀及びニラミ櫓台が復元されました。 明治期の古写真や江戸期の絵図・文献、発掘調査結果などに基づき、史実を尊重した木造の伝統工法で復元され、戸室石による石垣積み、漆喰仕上による白壁、軸組をはじめとする木工事及び鉛瓦葺き屋根など、細部にわたり石川の匠の技が発揮されています。  

御城中壱分碁絵図(横山隆昭家蔵)/河北門の構成

河北門復元資料

天保元年(1830)の「御城中壱分碁絵図」や明治期の古写真は復元の重要な資料となりました。
埋蔵文化財調査では二の門の鏡柱の礎石が確認され、復元にあたっても礎石として使用しています。

明治期の河北門(金沢大学附属図書館蔵)

一の門

新丸から三の丸に至るための最初の門で、切妻屋根を持つ高麗門形式の総欅造りです。脇土塀は海鼠壁仕上げで、土塀の内部側には隠し狭間が設けられ、戦の時には海鼠壁の瓦を破って鉄砲狭間として使えるようになっています。

ニの門

大扉の上に櫓を置く櫓門形式で、枡形内部側に石落し付きの出し(出窓)が設けられています。門扉、柱、梁には厚さ3 ㎜の鉄板(帯鉄)が鋲で止められ防御性を高めた装飾が施されています。
建物の構造や意匠を観覧いただくため櫓門内部を公開しています。壁や床の木材には石川県産の能登ヒバが使用されています。

枡形土塀

枡形を囲う土塀は古文書で「城内で唯一のかくし石垣」と記載されています。復元にあたっても壁の内部は石垣積みで仕上げを漆喰壁とし、外観からは石垣造りであることがわからない構造としています。

ニラミ櫓台

宝暦の大火で焼失した河北門は石川門と同様に2層の櫓があり「ニラミ櫓」と呼ばれましたが、安永元年の再建では櫓は再建されず、出し(出窓)付きの土塀に代えられました。

規模・構造・仕上げ

一の門 高麗門 高さ7.4m、幅4.7m
総欅づくり 鉛瓦葺き
二の門 木造二階建櫓門入母屋造
高さ12.3m 二階床面積220.12㎡(26.909m×8.180m)
鉛瓦葺き 外壁大壁漆喰塗、内壁板壁
ニラミ櫓台 二重塀 出し(向唐破風造) 延長23.9m 幅2.4m
鉛瓦葺き、壁漆喰塗、外側海鼠壁
枡形土塀 築地塀(ついじべい)(内部は石垣積み) 延長29.6m
鉛瓦葺き、外壁漆喰塗り

金沢城三御門関係年表

年号 西暦 出来事
天正11年 1583 前田利家、金沢城主となる
天正12年 1584 利家、河北門より末森城へ出陣したと伝える
慶長10年〜元和元年 1605〜1615 このころ河北門が枡形門となる
寛永8年 1631 寛永の大火、こののち二の丸に御殿を造営、橋爪門創建
享保17年 1732 河北門一の門石垣を修築する
宝暦9年 1759 宝暦の大火で金沢城の建物の大藩を焼失する(三御門も焼失)
宝暦12年 1762 河北門の石垣を修築する、橋爪門再建なる
安永元年 1772 河北門再建なる
天明8年 1788 石川門再建なる
寛政11年 1799 地震で石川門や河北門などに被害
文化5年 1808 文化の大火により二の丸の御殿、櫓、長屋及び橋爪門焼失
文化6年 1809 橋爪門、五十間長屋、菱櫓の再建なる
文化11年 1814 石川門の修理完了
明治14年 1881 失火により二の丸御殿、橋爪門、五十間長屋等焼失
明治15年 1882 このころ河北門撤去される