金沢城の復元整備

鼠多門・鼠多門橋

黒い海鼠漆喰が特徴の「鼠多門」と城内最大規模の木橋「鼠多門橋」
明治期に失われて以来約140年ぶりに往時の姿が甦りました

鼠多門・鼠多門橋の特徴と整備の概要

鼠多門は金沢城の西側の曲輪である玉泉院丸に位置し、木橋(鼠多門橋)により接続される金谷出丸(現在の尾山神社境内)からの出入口でした。江戸時代前期には既に存在していたことが絵図等から判明しており、城内の多くの建物が失われた宝暦9年(1759)の大火でも焼失を免れ明治期まで存在していました。 大扉の上に櫓が作られる櫓門形式の城門で、城内の他の門と同じく屋根は木型を鉛板で覆う鉛瓦、外壁は白漆喰塗りで腰壁は海鼠壁が用いられますが、海鼠壁の目地が黒漆喰で仕上げられることが他の門にはない特徴です。 鼠多門橋は玉泉院丸と金谷出丸を隔てる水堀に架かる城内最大規模の木橋で、幾度かの架け替えを経て明治期まで存在していました。明治10年(1877)に鼠多門橋が老朽化のため撤去され、明治17年(1884)には鼠多門も火災により焼失、周囲の水堀も埋め立てられ面影は失われていました。 埋蔵文化財調査や絵図・文献調査の結果に基づき、鼠多門は史実に沿った木造による復元、鼠多門橋は現代の安全基準を満たす鋼構造で、鋼材を木材で覆う仕上げとし、令和2年(2020)に完成しました。 整備にあたっては、発掘調査で確認された江戸期の遺構に保護層となる盛土を行い、傷みの見られた石材を修理するなど文化財の確実な保存を行っています。

建造物・工作物の概要

規模・構造・仕上げ

区分 規模・構造・仕上げ
鼠多門 規模
桁行 22.03m、梁間7 .35m、
建築面積 198.62㎡、床面積 323.84㎡

構造
櫓門、入母屋造
木造二階建て、門部分地階

仕上げ
櫓部外壁漆喰塗り
鉛瓦葺(本瓦葺型鉛板葺)
使用木材(全体の役75%が県産材)
槻(門の柱・梁・扉等)、松(櫓の梁)、能登ヒバ(櫓の側柱・壁板・床板等)、杉(化粧屋根裏板)
鼠多門橋 規模
橋長 32.6 m、全幅 5.5 m、
有効幅員 4.3m

構造
1~P4:4径間張出し式鋼床版ラーメン構造
P4~P5:鋼床版ラーメン構造
P5~P7:2径間張出し式鋼床版ラーメン構造

仕上げ
木製高欄、木床板
鋼材は木板により化粧
使用木材 能登ヒバ

文化財調査の概要

発掘調査により鼠多門の外郭線や門の礎石位置を特定できたほか、通路部の側壁石垣の下部が遺存していたことなど、治17年(1884)に焼失した鼠多門の遺構を検出し、規模、構造を確認しました。また、鼠多門の特徴である黒漆喰仕上げの「海鼠漆喰」が出土したことから、鼠多門の海鼠壁は黒みがかった鼠色であったことが明らかになりました。 鼠多門橋の調査では、明治10年(1877)に撤去された橋脚遺構を検出し、それ以前の橋脚遺構も検出できたことから、数度にわたる架け替えが行われたことが明らかになりました。
調査期間 平成26年9月~平成30年8月
調査面積 2,300㎡

側壁石垣の検出状況(北)/側壁石垣の検出状況(南)


  絵図・文献調査では、明治期の古写真や江戸時代の絵図など鼠多門や鼠多門橋に関する史料が複数確認され、復元設計に反映されました。

鼠多門・鼠多門橋関係年表

年号 西暦 出来事
天正11年 1583 前田利家、金沢城主となる
元和9年 1623 二代藩主前田利長正室の玉泉院が逝去し、屋敷を撤去(この後、一帯を玉泉院丸と呼称)
寛永8年 1631 二の丸御殿を造営
寛永11年 1634 玉泉院丸に庭園造営
宝暦9年 1759 大火により城内の大半が焼失、鼠多門は残る
明和2年 1765 鼠多門橋を架け替え
文化9年 1812 鼠多門長屋を修理
文化13年 1816 鼠多門を「玉泉院様丸御門」と改称
文政4年 1821 武具土蔵を新築
明治4年 1871 廃藩置県。金沢城が軍の所管になる。
明治6年 1873 金谷出丸跡に尾山神社が創建される
明治10年 1877 鼠多門橋、老朽化により撤去
明治14年 1881 軍司令部となっていた二の丸御殿が焼失
明治17年 1884 鼠多門焼失
昭和7年 1932 鼠多門前の堀が埋め立てられ道路になる
昭和24年 1949 金沢大学開学
平成13年 2001 金沢城公園開園
明治10年 1877 金沢城跡が国史跡に指定される
平成20年 2008 軍司令部となっていた二の丸御殿が焼失
平成27年 2015 金沢城公園第三期整備計画に鼠多門・橋の復元整備を位置づけ、
金沢城鼠多門等復元整備専門委員会を設置
令和2年 2020 7月 鼠多門、鼠多門橋完成